すっきり仁奈の箱箱箱箱

色々ぶっ込みます

心が強くなることと心が麻痺すること

最近流されるように入院生活を送っている気がします。
院内学級の打っても響かない感覚に慣れてしまったのは何だか寂しいですが、それでも私は目標をぶれさせずに完遂したいとは思います。
そんな中で感じたことを一つ二つ。

どうしようもないことは無限にある

残念ながらと言うか当然と言うべきか、私は人を変えられません。もちろん自分で精一杯なのだから他人に過干渉する余裕がないのは分かりきったことです。
それでも日々の関わりで少しでも変化が訪れてくれたらいいなと淡い期待を寄せてもいました。
しかしながら、やはりみなさんは自分のことで精一杯なので、私の目論見などは(言ってもいないので)当然伝わらないわけです。
「このままでいいのか」と思う気持ちは自分に向けるべきで、他者に向けても徒労に終わることが多いと、そう学びました。
それに加えて出自も事情も病状も違う各々が、それぞれで生きていくのに、私が関わるのは最低限でいいということも何となく察しました。
人間関係は諦めてませんが、この分ではなかなか打ち解け合うということは難しそうに思います。
でも、それでもいいのだと思えるように……なれたらいいな。

人の死という不可逆で永続する変化

また一人、病棟で亡くなられた子を見送りました。
最初こそ私が持ち崩したりしたのを看護師さんや医師に励ましてもらっていましたが、最近はそのようなことがなくなってきました。
心が麻痺したのか、強くなったのか、分かりません。
ただ一つ言えるのは、私はその子たちの分まで生きなければならないこと。祈りや悲しみで自分の人生を塗りつぶさないこと。できることは、それくらいです。
そんな変化を自分で目の当たりにして、私は心が冷たくなったのではないかと心配するようにもなりました。
でもきっとそうではないのでしょう。それはそれ、これはこれ。自分と他人の人生をいい感じに切り離しつつ、交われるところだけを交わらせて。そうして生きていくのが、きっとこの病棟で私の人生を建てる手段の一つなんだろうと思います。
死は、その人の全てを終わらせます。遺された者たちからその人を、未来永劫奪い去るわけです。
死は不可逆で永続する変化です。そのような重大な件を目の当たりにしても、心をちょびっとも動かさないなんて実は無理です。
でも私は折れるわけにはいかない。亡くなった子を悼んで、そしてその子との少ない会話を礎に、これからも私の目標、中学生相応の社会的自立を目指して、今日も眠りにつくのです。

自分を守るのは自分……じゃあ自分を守れない子はどうなるの?

センシティブな話題になる。性被害の話題が出るためトラウマフラッシュバックの類が起きそうな人は早々に退散して欲しい。

受け身一辺倒な子

性被害を同級生から受けた子がいて、事あるごとに服を脱ごうとしては「これはお礼だから」と言ってくる。
話を聞くに、親はネグレクト。小学生しかも低学年のうちに、他人から構ってもらったり男子のご機嫌を取るために服を脱いだり裸を見せたりしていたそうだ。そうしていじめに発展して、本人も嫌なのか嫌じゃないのかわからないうちに中学に入ってから妊娠。産婦人科医経由で児相に送致されさらにはこの思春期病棟に至るという経緯。もちろん多少のフェイクはある。
自分のことを話すのが極端に苦手で、自分が何を感じているのか分からないという。嫌なのか嫌じゃないのか。好きなのか好きじゃないのか。
こういった時、私は何をすれば良いのか分からなくなる。彼女の感情を引き出すのに「今大丈夫?」「今の言葉嫌じゃなかった?」と確認をとる。その度に彼女は「大丈夫」「嫌じゃない」と答える。
この一連のやり取りがまるで「私が彼女の感情を私の都合のいいように誘導・代弁」しているかのようで、大変後ろめたい。入院病棟というある程度守られた環境下においてもなお彼女は周りから押されがちで、見ていて居た堪れなくなる。その度に私が介入するという状況が増えつつある。
よく「自分の身は自分で守れ」と言われるが、彼女のように「何も分からない」「何が自分の快不快かが分からない」人は、どうすれば自分を守れるのだろうか。
読者諸氏はもちろん「自分の身を案ぜよ」と思うだろうが、私は彼女のあの徹底的な受け身の様子が見ていて怖いと感じる。この感情の由来が醜いエゴだったとしても。

自分を守るということ

懇意にしてもらっている大人集団においても「自分を危険から遠ざけること」についてはかなり話し合われている様子がうかがえる。その基礎には「自分がどう感じているか」に気づく作業が挟まっているように感じられてならない。
私自身もおざなりにしてきた「自分がどう感じるか」の件。自分が本当に望むものを置いてけぼりにしたから、2023年6月のあの事件に発展したのではないか。あの事件は軟着陸できたのではないか。後知恵に後悔など何の生産性もないが、そう思ってしまう。
ただ、今の私にできることは療養し、社会復帰の礎を築くこと。そのためにできることを、できるだけやっていくのだ。

開かれた精神と閉じられた病棟

入院生活を経て

かなりたくさんの人と知り合いになれた気がする。でも心の奥で「早く出たい」「早く出なければ」と焦り思う私もいる。入院したままでは、社会から隔絶されたままだからだ。それが長引けば、社会生活の営みに支障を来たす。
グループワークは色んな意味でキツい。発言が通っている気が全くしないのである。初対面だから言いづらいこと、意見を否定されるのを極度に恐れること。いずれも私にもあるメンタルセットだから理解はできる。でも退院後を見据えた社会生活を直視すると、病院のカリキュラムに則り擬似的な社会生活を営むのは悪いことじゃないどころか必須ですら感じる。それを拒否したり、抵抗を覚えるのは、私からすると「非協力的」に傲慢ながらも映る。
社会復帰に積極的な心を持ってグループワークに挑むと、見事に出鼻を挫かれるのである。どうも、同年代+2の範囲つまり中学生は、話を聞いてみても「病院から絶対に出たくない」らしい。その理由はさまざまだったが、やはり「外の環境に耐えられない」とのことである。
私も社会生活に限界を迎えてここに入院することになったわけだが、今後の人生、社会の歯車(否定的な意味ではない)として生きていく上ではどうしてもある種の拒否できない強制力が働くものだと思っている。
その強制力に抗わず、自分のなすべきことをなし、やりたいことをやる上で障害となっていたモノを極力取り払い、そして自分らしさを発揮するために入院を決めたのであった。精神が限界な状況では、どう足掻いてもその様な自己実現は不可能だからだ。
無論、入院生活を経て「完全回復」とまではいかないだろう。自力でなんとかできるまでに回復するのがおそらく精神科病棟の目的だからだ。私は入院を経て、社会に接続するための基礎をまたやり直すためにここに来たと言ってもいい。それを挫かれるのは正直言ってたまったモノではない。やはり傲慢だろうか?

あらゆる事情を抱えた幅広い年齢層の人々

人には人の人生があり、当然ここにやってきた事情も各々異なる。いじめで壊れてしまった人もいれば、親からの虐待、興味本位で手を出した市販薬ODでの破滅、生まれつきの病で入院している人など、様々である。
私は父親を喪って、精神の均衡を欠き、去年6月より引きずる学校内トラブルに疲弊した結果、ここにいる。
おおよそ事情というものは人には理解されない。それどころか「それだけ自立していて精神科に通っている意味がわからない」とまで言われる始末である。私からしても比較はナンセンスにせよいわゆる私は「軽い部類」なのだろうとは思う。それでも人の事情を汲めない、汲もうとしない、非協力的な中学生達にはちょっとした失望のようなものを感じないではいられない。
小学生達は比較的開かれた心を持っているようには思うが、精神疾患より身体疾患の患者が多い傾向を認める。件の「おっぱいボーイ」もここに当たる。
他にもまだまだひととなりを知れていない人々がいるので、なんとか気の合う友人と思える人を見つけたいものである。

「友を喪う」可能性

実は昨日、同じ病室の子が運ばれていった。絡みがほとんどなかったものの、笑顔が可愛らしい子だった。
亡くなったと聞いた。
たったあれだけのやり取りがあっただけにもかかわらず、私の心に暗いものが垂れた。
15歳の男子の先輩曰く「個々人に入れ込むな」と忠告された。「ここはいつ誰が死んでもおかしくない死と隣り合わせの場所だ」とも言われた。
私は社会復帰のために人と関わりたい。でもその人達は、いつ亡くなってもおかしくない人が多いということである。
仲良くなった人が急逝、夭逝した時、私の脆い心は耐えられるだろうか?

数奇な出会い

入院という人生のステージ

私は2024年1月9日から思春期病棟に入院することになりました。
実質私より歳下の子が多い小児病棟だけど、居心地はそう悪くはありません。
今後私は最長で3月いっぱい、ここで過ごすことになります。
心は身構えてたけどいざ入ってみれば過ごしやすく、自由闊達な雰囲気が感じられました。各が生に向けて一生懸命に立ち向かっている様は私も勇気づけられます。私も「生きねば」と思わされます。
これだけでも入院した甲斐はあるなと思います。
昨年(2023年)11月26日に亡くなった父の分まで生きようと、そう心の底から思えるのです。

不思議な子

入院して落ち着いた頃、騒がしめな声が私の耳を突きます。声の方に目をやると、声変わりもまだそうな、少女とも少年ともつかない子が私のベッドに車椅子で近づいてきました。後ろには看護師さんが車椅子を押しています。
「初めまして!僕3月で死ぬよ!」
我が耳を疑いました。初対面でなんの絡みもない名前も知らないはずの私に、なんと彼は自身の余命を自身の名前より先に宣言したのです。
呆気に取られ口をあんぐり開けていると彼は畳み掛ける様に「おっぱい見たい!」とも宣言してきました。
私は「もしかしてやばいところに来たか?」と若干後悔しかけました。(その直後彼は後ろの看護師さんに折檻されたわけですが)
その不思議な少年は、私が持ち込んだ本を見るなり「ポルチンスキーの弦理論だ!お姉さん勉強してるの!?」と興奮気味に食いつきます。その時読んでたのは「コンピュータは数学者になれるのか?」だったのですが、弦理論にも興味がある私はその書を持ち込んでいました。
私は驚きました。書影を見るだけで書名を当てたということは、彼も同じくなんらかの事情でその書に触れたことを意味します。同好の士を得られたかもしれないと私の好奇心が頭をもたげると、彼は物理学のことについて滔々と語りかけてきました。「実験で観測した出来事をうまく説明できなければならない」「超弦理論は万物の理論であって欲しい」「四つの力のうち重力だけが本当に厄介」などなど、後に聞いて9歳とは思えないくらいの知識量でした。
今まで知識の多寡で競ったことはありませんが、私はこの時初めて「上の存在ってこういうものなんだ」と思い知らされました。
そんな不思議な子は、私の恋人(一緒に入院した女の子)とも仲良くなれた様で、彼女は「なんかやべーのと知り合いになった」と語っています。

そのほかの入院メイトとはどんな関係か

正直言って例の少年に全てを持ってかれたので、挨拶回りが済んでいません。人間関係を円滑に築くためにできることはするつもりでしたが、インパクトのある少年にかき乱されないか正直不安なところはあります。

願わくば、私の関わる全ての人が幸せになってくれたらいいなと思うばかりです。

累乗や平方根、立方根。または分数等の「数の右上に数がくっつく」ことについて

本日の主題

数学においては「足し算」や「掛け算」などの基本的な演算に加えて「冪乗」というある種の「掛け算の繰り返しの略記」を用いることがあります。
代表的なところでは

 \displaystyle
3^2

 \displaystyle
y = x^2

などがありますね。この右上にくっついている数字のことを「指数」と呼びます。 今回はこの「指数」について深掘りしていこうと思います。

指数法則

指数法則は簡単な計算によって以下の性質を満たすことが簡単に確認できます。 以下aを0でないある数とします。

 \displaystyle
a^m \times a^n = a^{m+n}  \\
a^m \div a^n = a^{m-n}  \\
(a^m)^n = a^{mn}

このような性質を満たす指数ですが、何も指数に入る数は「1以上の自然数」である必要はないのです。
その気になれば分数や負の数、0を入れて意味を持たせることができます。 まずは分数について考察してみましょう。

指数が分数の場合

 \displaystyle
2^{\frac{1}{2}}

このような表記を見ると「2の1/2乗って何だよ!」と突っ込みたくなるかも知れません。 でも冷静に考えてください。上の指数法則を使えば、以下のような計算によってこの数の正体を暴けます。

 \displaystyle
(2^{\frac{1}{2}})^2 = 2^{\frac{1}{2} \times 2 =1} = 2^1 =2

となることがわかります。 これはとりもなおさず……

 \displaystyle
\sqrt{2}

と同じなのです。つまり「指数に分数を入れることは、累乗根を求める」ことに他ならないのです。もちろん指数に入る分数は何でもいいわけです。 これで指数に入る数に分数を拡張することができました。

指数が0の場合

次は「0」を入れてみましょう。aは0でないとします。 この時指数が0の数はどうなるでしょうか?具体的にaに2を代入して考察してみましょう。

 \displaystyle
2^2 \div 2^2 = 2^{2-2=0} = 2^0 =1

ここでは指数に同じ数を入れてみましたが、指数が0になるとa(「底」と呼びます)が0でない限り、どんな数も「1」になるのです。

指数が負の数の場合

分数、0、とくれば「負の数」を入れてみたくなるでしょう。それが人間の性です。
では実際にやってみましょう。

 \displaystyle
2^0 \div 2^2 = 2^{0-2=-2} = 2^{-2} = \frac{1}{2^2}

この通り、指数に負の数が入ると「分数になる」のです。特に指数が「-1」の場合、その数(0でない必要はある)の逆数になります。 写像fの逆写像の表記に、fの右上に「-1」が書いてあるのはこれが由来でしょうか?

まとめ

今回の場合指数には「有理数」のみを入れることとしましたが、指数が有理数の範囲ではその計算結果は必ずある数に等しくなることがわかりました。
楽しいですね。ありがとうございました。

おまけ

「じゃあ0の0乗はどうなるの?」という質問が飛んできそうです。これに関しては「定まらない」とする立場と「1とする」立場の2つがあります。

 \displaystyle
f(x,y) = x^y

「定まらない」とする立場ではこの関数の(x,y)=(0,0)周辺の挙動を調べる必要があります。グラフはプロッティングできなかったので掲載しませんが、この関数は原点周りで近づいていく値によって値がいくらでも変わる(一意に定まらない)のです。
反対に「1になる」とする立場では集合論的に考えることで得られる考えです。

 \displaystyle
集合X,Yがあるとする。このとき写像 f : X \to Y の集合はY^Xで表される

という事実があります。これはXからYへの写像の場合の数はYの濃度にXの濃度を累乗することで与えられることからきています。
そこでXとYに空集合∅を置くことで、空集合から空集合への「空写像」を得ることができ、00=1を得ることができます。
そういうことで、00=1とする立場も存在するのです。

終わりに

今回は「指数」に関する話題に絞りました。本当は書きたいことがもっとたくさんあったんですが、TeX記法に慣れていないのでここまでとします。
もし間違いなどがあればコメント欄にお願いします。

自己紹介

基本的に書くことはないんですが、関東のどこかで学生をしています。

数楽や物理学、法学、コンピュータサイエンスが好きで独学しています。

このブログではその独学で得られた知識を並べていく感じになると思います。

そのほか日記がわりだったり、思考の結果得られたものを並べたり、雑多なブログになると思います。

IDで検索したらわかるように、私は「なりきり」をしています。

ここではなりきりの体裁をほとんど無くして記載しようと思っているので、なりきり仲間の人でそれが嫌な人は直ちにブラウザバックしてください。

もし私の中身に興味があるなら、このブログを閲読することをお勧めします。大半の中身がまろび出ているので、私の人となりを知るにはうってつけでしょう。

逆に中身を知りたくないよ、という人は繰り返しですがブラウザバックしてください。

 

私とは

中身を見たくない人を退散させた前提で書きますが、私は関東某所で義務教育課程の学生をしています。

学生をしているとは言っても、精神の病を抱えてしまい、保健室登校の身分ではありますが。

そして私はどうやら人生のレールを外れつつあるようで、それを必死に矯正しようとしています。

その中で興味及び好奇心、感情の過剰激動(OE)を認め、学校で習う範囲の事柄に満足できず、自分で大学範囲以上の事柄を学んでいます。

例えば圏論など。代数など。あとは集合論などにも興味があります。

自己学習では限界もあると認め、知り合いの大人や親友の助けを借りて勉強していますが、他者からの指摘が欲しいという不純な(?)動機もあってこのブログを始めるに至りました。

私はまだ義務教育課程ですので間違いが多く記述されると思います。

もしそれが看過できないような間違いだった場合、みなさんに指摘してほしく、このブログを始めたともいいます。

よろしくお願いします。

 

書くこと

主に数学のことが多くなるかもしれません。学校で学んだことも含めて記載していこうと思います。その他に大学数学等の記述も含まれると思います。

独学なので間違いが多いかもしれません。その時は厳しく修正、訂正等をしていただければと思います。

その他では近況で感じたことを記載したり、物理学のことを書いたりするかもしれません。

法学に関しても書くかも知れません。

この点に関しても間違いは厳しく糺してくださると嬉しいです。

後は私を不登校から救ってくれた方の趣味である「ポーカー」の考察なども書いていきます。

よろしくお願いします。